ウチ(一乘院)の名誉住職、名前を西仁海といいます。温泉山満明寺一乘院第十九世です。仁海と書いて戸籍上は「ヒトミ」といい、僧名は「ニンカイ」と言います。
真言宗で「仁海」という名前で有名なのは、後の随心院を建立した雨僧正の仁海和尚を思い浮かべますが、一乘院の仁海和尚もびっくりするぐらい雨男で、車で移動するときは大雨、旅行に旅立つ当日も大雨、遊覧船に乗っても大雨と、一乘院で最強の雨男です。
昭和19年4月6日生まれ、第十八世宥興の長男として南串山町に誕生しました。五人兄弟の長男、世襲制となった一乘院なので、将来は僧侶になることが義務づけられ育ちました。
地元の高校を卒業後は、当たり前のように和歌山県にある高野山大学に進学、高野山・龍泉院に寺生として学生生活を送っていました。
高野山に上った直後の昭和38年4月11日早朝、龍泉院に隣接している光台院の客殿から出火、火災の情報を聞いた龍泉院寺生全員で「消火活動よりも先に、仏様を助けなければ!!」と光台院本堂に駆けつけ、当時19歳だった仁海和尚も、本尊様の阿弥陀様を力任せに肩に担ぎ、火の粉や煙の舞う光台院境内から阿弥陀三尊、毘沙門天を近くの南院に運び出し、仏様救出のミッションを完遂させました。
その後、仁海和尚は高野山にて加行を無事終え、自坊のある南串山町に帰山、南串山町青少年育成会会長、選挙管理委員、交通指導員、公民館の審議委員などの仕事も兼務していたのと、まだまだ若くもあったので髪の毛を伸ばし、「パンチパーマの真言宗僧侶」として三十代を過ごしました。
途中、195年ぶりの本堂、そして位牌堂・庫裡・参道工事を計画し、古い木造の本堂から鉄筋コンクリート二階建ての本堂へと一乘院は建て代わりました。
工事が全て終わるのを見届けるように第十八世が静かにこの世を去ると、仁海和尚も第十九世として頭を丸め今の僧侶らしい姿が定着しました。
平成18年から22年まで四年間は総本山仁和寺の財務部長として役職をもち、令和4年、後七日御修法の供僧として登壇しました。
定年という言葉のない一乘院にて、生涯現役で僧侶として、また一乘院名誉住職として、今日も明日も明後日も、檀信徒の皆さんのために拝み続けていくそうです。


